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Peter Carter: The coach who moulded Roger Federer
ピーター・カーター:ロジャーフェデラーを作り上げたコーチ

* by: Will Swanton
* From: The Australian
* September 01, 2012 12:00AM

以下、雰囲気直訳

 
控えめで奥ゆかしい。彼らはどこかほかのところに話の焦点があるものと思っていた。はじめは彼らが正しかったかもしれない。我々が押しかけたのはロジャー・フェデラーのオリンピック、そしてUSオープンにおける心の澱を解き明かさんがためだった。そしてもっとも影響を受けたコーチの死からやがて10年を迎えようとする世界で最も偉大なアスリート、彼の思慮深さと上品さを説明するための、だ。
 
そして、亡くなったオーストラリア人指導者、ピーター・カーターがフェデラーのレトロで完璧なテクニックに与えた影響について惜しみなく称えつつ、10年前バーゼルで執り行われたカーターの葬儀において彼が受けたショックがいかに比類なきテニスキャリアの裏にある静かなる決意、そして人を不快にさせることのない矜持を生み出したのか――それを解き明かすこともまた我々の目的に含まれていた。

 
しかし我々はアデレード郊外のヌリオートゥパのボブとダイアナの家で、フォトアルバムをパラパラめくり、彼らの息子のために涙を流し、彼らの膨大な思い出に震えながら2時間を過ごしてしまった。前もって考えていたプランは、すべて棚上げとなってしまったのだ。

ああ、そうだ。フェデラーは比類ない。
そしてそう、スイスのスターを9歳のころから指導し、彼を国際的なスターダムに押し上げたピーター・カーターは、公私両方において、とても重要な役割を担っていた。運命がもっとも無常で残酷な方法でそれを遮るまでは。しかしひとたび両親の前に座ったならば、それだけであなたは全ての、未編集の写真たちを見ることができてしまうのだ。

ボブとダイアナは彼らの息子への震えるほどの感情と愛情をこめて話をしてくれた。彼らはいまだに彼らを気にかけ、優しく接してくれるフェデラーについての賛辞ばかりを口にした。しかし1杯目のコーヒーを飲み終え、それと一緒に出されたサンドイッチとビスケットに手をつけるころには、我々の心は彼らのために引き裂かれるような気持ちだった。

『けして楽にはならない―――けして』と、ボブは言う。

8月は彼らに恐怖と寒気を与える。37歳のピーターが南アフリカでの交通事故により殺されてから、10年がたつのだ。彼が死んだのは8月1日だった。
8月9日はピーターの誕生日だった。
その1日前(8/8)、フェデラーは31歳の誕生日を迎えた。

ボブとダイアナは8月1日、彼らだけの小さな弔いの儀式を行う。どこまでも正直で優しかった彼の息子に弔意を表するためだ。彼の正直で芯の通った人となりは、選手時代のカーターと親交のあった人間たち、あるいは10代になる前、そして10代になってからのフェデラー、つまり彼が多感だった9歳から18歳までの間彼に影響を与え続け、フェデラーという人間を形作った人間として彼を知る者たちからも証明されている。

『私は、彼はたくさんの人間に好かれていたと思います』ボブは言う。
『彼はだれとでもすぐ打ち解けて、私は……』 間。『私はそんな彼を誇りに思っています。ああ、本当に。つらい昔の話です』
 
2002年の8月1日、カーターはクルーガー国立公園のランドローバー(車の種類)の乗客だった。その旅行には3つの意味があった。彼の妻、シルビアとのちょっと遅めのハネムーンを、彼女が癌を克服したお祝いと兼ねて行うため。それから、7月31日は彼女の誕生日だった。彼女はカーターの車の前を走る車両に乗ってた。その車が、前で起きたミニバンとの衝突を避けるために急ハンドルを切ったのだ。車は橋のレールをすり抜け、川底に沈み、カーターの車の屋根に乗っかる形となった。
 
警察の報告書によるとこうだ:『カーターと南アフリカ人の運転手は車の屋根がつぶれた瞬間に死亡したものと思われる』
 
そのときフェデラーはトーナメント出場のためカナダのトロントにいた。訃報を知らされた夜、彼はホテルを飛び出し、大声で泣き叫びながら狂乱状態で通りを走り抜けた。

彼が、ピーターに旅行先として南アフリカをすすめたのだ。

『とてもショックを受けた。とても悲しかった』フェデラーは言う。

『ピーターはとても近しい親友だった。子供の時、毎日彼といたんだ。ピーターは静かで、でも典型的なオーストラリア人で、ユーモアがあってすごく面白くて。彼が僕のためにしてくれたことはいくら感謝しても、し足りない』

 
『彼のおかげで、テクニックと冷静さを得ることができた。彼は僕の最初のコーチというわけではない。でも彼こそ僕の本当のコーチだった。彼は僕のことを知っていて、僕のゲームのことを知っていて、僕にとって何が最善かいつもわかっていたんだ』

カトリック教徒のフェデラーは歴史あるレオンハルト教会で行われる葬儀に参列するためバーゼルに戻った。1年前同じ教区でピーターとシルビアは婚儀をとりおこなっていて、その時と同じ牧師が葬儀も行うこととなった。
フェデラーの母、リネットさんによると、カーターの死がフェデラーに与えた衝撃はとても大きいものだったという。それが彼にとって初めての近しい人間の死だったからだ。

『テニスにおけるどんな敗北とも比較にならないものでした』フェデラーは言った。
 
 
元選手でコーチのダレン・ケイヒルはカーターと共に育った。
生まれも育ちもアデレードだ。

 
『この10年間、カーターのことを考えずに過ごした日はありません』ケイヒルは言う。『彼は誠実な友人でした。明快で忌憚ないアドバイスをくれて頼りになる奴でした。でも自分自身のこととなるとちょっと慎重になる傾向もあって。彼はそれがわかっていてちょくちょくネタにして、大体が大笑いさせてくれて、それがピーターでした。』
『彼は鼓膜が破れるといけないからといって耳に栓をしてウォータースキーをするタイプの男です。それも、あとで壊れた耳栓を手に、鼻から大量に水を流しながら水から出てくるためだけにね。満面の笑みを浮かべながらです』
『彼のことは家族のように思っています。でも、彼と時間を過ごしたことのある人間なら誰しもがそう思うでしょうね。素晴らしいテニスで国を代表する選手になったので、彼はほとんどの時間を家から離れた都市で過ごしました。テニスコートで彼の夢を追いかけていたのです。
彼はたくさんの人間の人生において大きな役割を果たしていました。彼と友情を分かち合えたラッキーな我々にとっては、彼はいまだに、いないことをひどく寂しく思ってしまう、そんな存在です。』

カーターの葬儀の後、フェデラーはデビスカップに出場し、モロッコとの試合において背中に『カーター』とプリントしたウェアを着てプレーをした。2002年の終わりのことで、彼にはまだメジャー大会での優勝経験はなかった。

フェデラーはカサブランカでチームメイトに、『僕たちはカーターのために絶対勝たなきゃいけない。絶対に』と言いふくめた。

スイッチは押されたのだ。これが彼のキャリアのターニングポイントだった。

堅い決意がなされたことによって、彼はコート上で一種のトランス状態になった。それは暗殺者のような計算された冷静さである。それまでフェデラーが激情を抑制しようと試みたときは、しばしばコート上で無気力になってしまった。でも今は内なる炎と表面上の冷静さを絶妙にコントロールする方法を見つけたのだった。

彼はカーターのために、勝たなければならなかったから。

モロッコのエル・アイナウイとヒシャム・アラジはとても強い選手ではあったが、フェデラーはその両者をこっぴどく打ち負かした。両方とも、6-3 6-2 6-1というスコアだ。カウントダウンは始まった。フェデラーはかつてテニスを生きるか死ぬかであると考えていた。でも、そうではなかったのだ。カサブランカでの経験は、彼の残りの競技人生における心理的な青写真となったのだった。

彼はその次の年のウィンブルドンにおいて、同じようなトランス状態になって優勝を果たした。それは、歴史の始まりだった。
 
『彼の死が僕を良くしたなんて、言うことはできない。』

フェデラーはカーターの葬式について語った。
『でも、そこで僕はもう一度、頭の中で、カーターに近づくことができた。
荘厳な所でさよならを言うことができたんだ。
少しだけ気分が紛れた。特にテニスに関するところにおいては』

 
『そのとき、何かが彼を打ったのかもしれません』ダイアナは言う。『そうさ』ボブも同意した。
 
カーターは彼がバーゼルのテニスクラブ・オールドボーイズでコーチの職についたとき、フェデラーに出会った。リネット・フェデラーは彼の9歳になる息子を短く紹介した
『これがロジャーです』

カーターはその夜両親に電話をして言った。『素晴らしい才能を見つけたと思う』と。
フェデラーは癇癪持ちのティーンエイジャーで、カーターは彼の理性を取り戻すための声となった。

フェデラーは自己不信に苦しんでいて、カーターはただ彼に信頼を寄せた。フェデラーは負けると審判席の後ろに隠れて泣いた。しかしカーターは彼にいつか素晴らしい選手になれると言い続けた。フェデラーを負かすことができるのはフェデラー自身だけなのだと。
 
完璧ともいえるデビスカップの試合から、彼を負かす人間は少なくなった。そののちは歴史であり伝説でもある。フェデラーは17のグランドスラムタイトルを手にし、ワールドNo.1の地位につき、スポーツ界における名声は不滅のものとなった。

フェデラーの75のツアータイトルのうちの18個目は特別なものとなった。2004年8月1日に勝ち取ったのだ。黒いウェアを着て、静けさとよく動く目とで。なぜなら今ではその静と動2つの共存が可能だから。フェデラーはアンディ・ロディックをストレートセットで圧倒し、こう宣言した。

『この勝利をピーターに捧げる。ピーターただ一人のために』
 
信頼と絆は、19歳のフェデラーがカーターをスイスチームのキャプテンとして据えない限りデ杯には出場しないといわせるほど強いものだった。それは不可能な要請に思われた。カーターはオーストラリア人だ。それにもかかわらずフェデラーは彼の願いを聞き入れた。『彼らはコーチと教え子、それ以上の関係でした』
ボブは言う。

『もしピーターが生きてここにいて、あれからロジャーの成し遂げたすべてを知ることができたら、どんなに素晴らしいだろう……』
 
ケイヒルによると、若いフェデラーを導くカーターの仕事は、かなり困難だったそうだ。
 
『彼は彼の手にあるものがよくわかっていました』ケイヒルは言う『彼はその子供がとても特別な存在だと知っていました。彼はその仕事の重要性をしっていて、大きな責任を感じていたのです』
 
『ロジャーの、カートをスイスデ杯チームの非公式キャプテンにするようにという要請は彼らの間の絆をよく示すものだと思います』
 
『テニスの世界では、オーストラリア人がスイスデ杯チームのキャプテンを務めるなんてありえないことなんです。ピーターは名士になったようなものでしたが、彼はとても謙虚でした。私たちはみな彼のことを誇りに思っています。正直言って、仲間内では彼は”ロッド・レーバー”のような存在だったんです。』
 
ボブとダイアナはフェデラーのウィンブルドンでの戦いを見るために夜中まで起きていた。オリンピックに関してもそうだ。

『ロジャーはただただとても礼儀正しい人間です』ボブは言った。

毎年12月になると、フェデラーから全豪オープンのためのフライトスケジュールと宿泊予約、送迎車の手配について添付されたEメールが届けられる。2005年以来毎年、ダイアナとボブはメルボルンパークのフェデラーの主賓客として招かれているのだ。もちろん、あらゆる費用は、フェデラー持ちだ。彼らはフェデラーのファミリーボックスに座り、彼と同じホテルに起居し、祝宴に参加し、残念パーティーにも参加する。そしてピーターについて話すのだ。

『私たちはいつもそこにいられることを嬉しく思っています』ボブは言う
『毎年、彼のお金で…本当に驚きです。なにからなにまで。彼は本当に我々のことを気にかけてくれている。我々がどんなに感謝しているか、彼が知っているといいのですが。昔は2週間はそこにいたんですけどね…でも本当に忙しくて大変なんです。家に帰れないほど疲れてしまうので……今はファイナルだけ行くことにしてるんです』

フェデラーの永遠に続くボブとダイアナへの優しい気遣いは、2003年の8月メルボルンで行われたスイス対オーストラリアのデビスカップの日に始まった。絆はピーターが結んだ。ボブとダイアナはコートサイドにいた。

『それが我々がピーターの死、そして葬式の後にロジャーを見た最初でした』

『我々が彼に会ったのは一度だけです。彼は17歳でした。あのデビスカップの週末はとても感傷的なものになりました。なぜなら、それが我々がロジャーを知る初めての機会になったからです。彼は我々を誰もいない部屋に招き、我々は充実した長い長い話をすることになりました。あれが、彼にとっても我々を知るきっかけだったと思います。我々は彼に言いました……”ロジャー、全力を出し切ればいい。ピーターはいつも君のことを考えていた。彼は君がとても特別な存在だと信じていたんだよ”と』

『それは我々全員にとってとても良い邂逅でした。ロジャーはピーターの死に関するすべての感情を出し切ることができて、我々もまたそうすることができました。それから、ロジャーとの関係はしばしば我々を救うことになりました』

『最初は彼と話すのは大変でしたが…いや、我々全員にとってつらかったのですが、言いたいことを言い合えたんです。今でも彼と連絡を取り合うことができるのは素晴らしいことです。彼の成し遂げたすべてから我々もたくさんの喜びを得ることができるのですから。』


FIN.

 
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